ディープヒーリングはプラクティショナーにも起きる

告白すると、ディープヒーリングのトレーニングに参加して以来私には憂鬱な不安がある。
それは、私のマインドの問題だと思うのだけど。
机に座ってのカタールの話や説明が終わり、隣の部屋に移動し実技にはいる時、
いつも私は、動揺していた。
カタールのお手本を見ているときは、それを理解し自分もやってみたいと思う。
しかし、自分がやる番になるとき、それは起こる。
だから私は、プラクティショナー役になるのがいつも不安で怖かった。

その人のその部分に触れようと思うとき、恐怖に包まれ頭が真っ白になり、身体が竦み緊張する。
その人が頑なにその部分を守ろうとしているように感じ。
その人の長年張り巡らした結界に触れるように感じ。
鉄の扉を閉め触れられないようにしていると感じ。
私は戸惑い動揺する。
自分が拒絶されているように感じ、動揺する。
自分には上手く対応できないと、そこから逃げ出したくなる。
それは、クライアントのことではなく、自分の状態、問題なのだろうが。

私は、表面では平静を装い、動揺したままおっかなびっくり触れ始める。
私は、上がり症なのか?
私には、できないのか?
私には、無理なのか?
いったい、私は何を恐れているのだろう?
といつも、ひとり落ち込んだ。

反対に、クライアント役の人の、ディープヒーリングを信頼し、ベッドの上に目を閉じ横になり明け渡した姿に、涙がこぼれる時もあった。

この間のDHTで、最後に腕の練習セッションを受けている時、
「あー、私も、こうして感じるままに、伸びやかに、溌剌とストロークを入れていけばいいんだ」と感じた。

この間のDHTのときの会話の中に出てきた「エンパス」のことが気になり、もっと知りたいと思い、
昨日から、「エンパシー」(ローズ・ローズトゥリー著)を読み始めた。
文章があまり頭に入らずよく分からないのだが、何だか自分の中に理解が起こっているような感じだ。
自分には実力がないからみんなのようにできないとか、
自分には知識が足りないからみんなのようにできないとか、
自分には理解が足りないからみんなのようにできないとか、
自分には向いていないのでみんなのようにできないというネガティブな方へ行かずに、
ただただノーマインドでそこに居ればよいのだと思えるようになっている。
ワンネスの会のワークで学んだ、ワンネスの意識、ヒーリングエナジーと繫がる感覚などの原点にもどろうと思った。
実技(何かをすること)への苦手意識から、そちらの方ばかり気にして、そのことにトータルに飛び込む前に自分をジャッジし否定していた。
やっぱり逃げいていたのかもしれない。

このトレーニングの小休止の間に、ノーマインド、ワンネスの意識(ヒーリングハート)についてとシーケンス、手技について、トータルに感じおさらいしようと思う。

そういえば、こういうことは保育園の時も、小学校の時も、中学校の時も、高校の時も、短大の時も、
家庭でも、子育てしているときも、仕事をしているときも、いつもいつも起こっていた。
余分に感じ過ぎてしまったり、理解できなかったり・・・。
いつも自分が拒絶されていると感じていた。
いつも自分が馬鹿だと思っていた。
いつも自分は何かが欠けていると思っていた。
いつも自分は不良品だと思っていた。
いつも自分は醜いと思っていた。
そこから抜け出す術もなく、苦しかった。
自己否定が鎮痛剤だった。

やっと、そこから抜け出せるかもしれない。
この時がくるなんて! 夢見たいだ。

今まで持て余し苦痛に感じていたこと、それが存在からの自分への贈り物だったのかもしれない。
そう考えると、ちょっとワクワクしてくる。ちょっと嬉しくなってくる。
ネガティブな思いへ逃げ込まず、自分への贈り物を受け入れ、上手くそれを使いこなして行きたい。
それには、どうしたらようのだろう?
それは、ノーマインドの中にすべてがあるそうです。

ヒーリングの道は凄いなと思う。
特に、ディープヒーリングの道は凄い。
ヒーリングエナジーに導かれ守られながら、身体的にも、精神的にも、感情的にも、霊的にも、気づきと解放が起こり、成長させてくれる。
私たちは、奇跡的な幸福の中にいるのだと思う。
(i)